【読書】白洲正子 『西行』
この本はずっと積読されていた本でした。この本を買ったのは2、3年前なのですが、その当時、何を思ってこの本を買ったのか今では思い出せません。この本を購入後にNHKの大河ドラマで平清盛をやっていましたが、ドラマの中で西行は藤木直人さんが演じていらっしゃったはず。そのドラマの中で、西行は待賢門院璋子との恋が結ばれず、自暴自棄を起こし出家しました。その自暴自棄っぷりが大変ひどいもので、璋子の首を絞めるわ、娘を蹴っ飛ばすわ、清盛に追いかけられて(追い詰められて?)木の下で髪を切るという、どう見ても狂人でした。確かに『西行物語絵巻』などには出家の際に縁側で娘を蹴っ飛ばした、という表現はありますがそれにしても無粋だな、と当時思ったものでした。残されている西行の和歌から鑑みるに、彼の出家はもっと穏やかなものだったようです。
とはいっても、西行という人は結構な癇癪もちだったようで、出家後、後徳大寺左大臣の屋敷へ参上した際、寝殿の上に縄が張り詰められてあるので、妙なことをすると思って、かたわらの人にあれは何かと尋ねた。鳶がくるので張ってあるのです、という。鳶がいるのが何故悪いのだ、と怒って踵を返し帰ってしまった。それを聞いた、徒然草の作者、兼好法師が、他の邸でも同じように縄が張ってあるのを見て人に聞いたところ、烏が池の蛙をとるのが悲しくて縄をはっているのだと知る。「徳大寺にも如何なる故か侍りけむ」と、西行をなじっています。この話の件は高校の古典の授業でやったような気がしますが、うろ覚えです。
西行の発心のおこりは、実は恋のためで、口にするのも畏れ多い高貴の女性に思いをかけていたのを「あこぎの浦ぞ」といわれて、思い切り、出家を決心したというのである(p43)。
度重なれば、みなにバレますよ、というのが「あこぎの浦」という言葉を使ってほのめかされています。「あこぎの浦」とは伊勢にある地名で、伊勢神宮へささげる神饌の漁場で、殺生禁断の地なのです。この禁断の地で夜な夜な漁をしていた漁師がばれて海に沈められたという言い伝えから、この「あこぎの浦」という言葉がこのような意味を持つようになったそうです。そして、口にするのも畏れ多い高貴の女性というのが待賢門院璋子です。
待賢門院璋子は西行より一回り年上だったのですが、きっと美人だったのでしょう。身分の違いもあって、結局この恋は実らず、出家してしまいました。西行が23歳のときのことでした。西行は仏道に邁進して出家したわけではないのです。恋に破れて、もう身分も地位も捨てちゃう、とってもナイーブな一面もあったのかもしれません。
白洲氏は西行の出家の理由なんぞ、どうでも良い。それよりも、その恋が西行の詩歌に与えた影響のほうが気になるとおっしゃっています。
うきよには留めおかじと春風の散らすは花を惜しむなりけり
諸共にわれをも具して散りね花浮世をいとふ心ある身ぞ
散る花(桜)に最高の美を見出し、死ぬことに生の極限を見ようとする、とくに後者の歌「諸共に」は、花と心中したいとまで言っています。西行は出家したあとも待賢門院璋子を思い、桜にその姿を重ねいたのは明白です。
ねがわくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ
西行は73歳で死ぬまで、歌を作りつづけました。その歌は歌で名をなしていた藤原俊成や定家らの技巧に凝った歌と違って、素朴で自然の景色をそのまま、または心のうつろうにまかせた歌でした。西行は歌を読むことは仏像をつくり秘密の真言を唱えるに等しい、歌によって悟りを得た、とまで考えていたようです。
この白洲正子氏の『西行』ですが、西行の足跡を実際自分がたどりながら、連載していたものを本にまとめたものです。西行は出家後、日本をふらふらしながら和歌を読んだのですが、白洲氏も西行ゆかりの地を訪ねています。みちのくに歌枕を見に行き、富士を眺め、讃岐に崇徳院の御陵を訪ねる。そこで歌われた西行の歌と土地の景色を白洲氏は見て、西行のこころのうちを探っています。歌のありのままを自然に解釈し大変興味深いと思いました。