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【読書】重森三玲 『枯山水』

  枯山水と聞くと多くの人が龍安寺建仁寺の庭を思い出すと思います。白い砂があって、岩がぽんぽんといくつかあって、侘び寂びとかいうやつらしい。白い砂は水を表しているらしい、そんな知識しか私は持ち合わせていませんでした。

 作者の重森三玲氏は昭和に活躍した作庭家であり日本庭園の歴史研究家でもありました。本書ではいろいろな歴史に残る書籍から「枯山水」の歴史をひもとき、枯山水が表現するものを論考するものとなっています。

 と、いっても私が想像する「枯山水」とは「白砂の上にある奇妙な形をした岩のある庭」なのですが、「枯山水」はそれだけを指しません。庭園には水を遣う池泉庭園と、水を遣わない「枯山水」の2つの形式があり次の写真も「枯山水」なのです。

PB150162.JPGPB150162.JPG / Olivier Lejade

 写真は京都、西芳寺の庭です。これは、筆者によると前期式枯山水だそうです。水を遣わず、山畔を利用し、多数の石組が行われています。このような庭は岩を海の島に見立て、美しい海景を表しています。岩は海に浮かぶ島だけではなく、時には浮かぶ船であったり、ときには激しく流れる滝を表すこともあります。

 そして、後期式の枯山水は次の写真です。

2005-03 119   Kyoto - Ryoanji Rock Garden2005-03 119 Kyoto - Ryoanji Rock Garden / stormsewer

 こちらは京都、龍安寺の庭。こちらのほうが「枯山水」として知られていると思います。

 「枯山水」を鑑賞する上で欠かせない思想は「幽玄」です。

 たとへば春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月のまへに鹿の声を聞き、かきねの梅に春風の匂ひみねのもみぢに時雨のうちそそぎなどやうなることのうかびてそへるなり。(p64より藤原俊成『慈鎮和尚自歌合』)

 自然の景観だけを全体とした歌は上作ではなく、自然の景観の上に、さらに、その自然の景観を意味づける何かが添わなければ美しい歌といえないと藤原俊成はいうのです。
 庭園においては、園地の池水は池水と見つつ、同時に海景に見立てているのであり、枯山水における白砂は、白砂と見つつしかも水と見立てるのです。
 日本の諸芸術の自然主義、自然観は欧米のものと異なるということに注意しなければいけません。日本の自然美は、自然に対して客観性に重点があてられているのではなく、自然に対して風情という、あくまで主観的な立場をとっているのです。純粋な自然の美は自然の美であって、芸術にとりあげられた美ではないのです。
 「枯山水」はさらに禅、仏教の「空の思想」の影響も受けます。空の思想は、見えざるもの、聞こえざるもの、したがってそれは表に表れないものという考えがなされます。枯山水の白砂には、水は全然見えないけれど、その海のなかに水を見出し、波の音を聞きだすのです。
 写真の後期式枯山水を見ると、空が多いほど、つまり白砂が多いほど岩や樹木を引き立たせていることが分かります。白砂は空でありながら無駄な存在ではないのです。
 ホテルや旅館、またはちょっとした居酒屋などの庭に「枯山水」風の庭がありますが、そこにはどれだけの風情がこめられているのでしょうか。見てくれだけの庭は自然の美しさは表現できていないばかりか、作り手の浅はかさが透けて見えるような気がします。古庭にばかり美しさがあり、現代の庭にそれがないと言っているのではありませんが、おしゃれな感じがするからとか、うけがいいからとかで庭が飾られているような気がしてきました。庭から日本人の思想が見えてくるような気がします。
枯山水

枯山水

 

 

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