【読書】高木徹 戦争広告代理店

  本書は、アメリカのPR企業がボスニア紛争においてセルビアを悪にしたてあげ、いかにボスニアに有利な国際世論を作っていったかを描いた作品です。本書に出てくるのはボスニアやらセルビアやら、日本人にはなじみの少ない国かもしれません。

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 しかし、アノまとめを読んだことがある人は多いのではないでしょうか。かくゆう私もアノまとめを読んだ一人です。

日本人少年の実体験? 話題を呼んだボスニア内戦体験記への反応 - はてなブックマークニュース

 ボスニア紛争とは92年の春から始まり、95年の秋まで続いた旧ユーゴスラビアの民俗紛争です。もともと、民俗も宗教もバラバラだった国をチトーという指導者がまとめていました。それがユーゴスラビアという国です。チトーがなくなり、ソ連も崩壊したあとユーゴに住む人々は民俗ごとに独立しようと考えました。まず、西端でスロベニアが独立します。続いてクロアチア。この独立にユーゴスラビア連邦は軍事力を用い独立を阻止しようとしました。この戦いはミロシェビッチ大統領らセルビア人中心で運営されるユーゴスラビアという国VSそこから脱却をはかる民俗という構図になっていきました。そして92年ボスニア・ヘルツェゴビナが独立します。 

 

Sarajevo, Bosnia and HerzegovinaSarajevo, Bosnia and Herzegovina / Francisco Antunes

 先に独立したスロベニアはその人口のほとんどがスロベニア人でした。ですので自分達の国境線からその他の民俗を追い出しさえすれば独立戦争は完了です。クロアチアも同じようなものでした。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナは国民の4割強がモスレム人(オスマントルコ時代キリスト教からイスラム教に改宗した人々の末裔)、3割強がセルビア人、2割がクロアチア人という有様でした。92年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナ国民投票で独立を強引に決めてしまいます。4割強がモスレム人なのでクロアチア人やセルビア人は国民投票では勝つことができませんでした。当然、セルビア人はこの独立に反発します。セルビア人は旧ユーゴスラビアの時代では多数派だったのです。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立によって、セルビア人はボスニア国内では少数派に甘んじてしまいます。また、モスレム人による迫害を恐れました。セルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナの議会から代表を引き上げてしまいます。クロアチア人もこれにならいました。よって、ボスニア政府はほぼ、モスレム人だけの政府になってしまいました。ボスニアに住むセルビア人は少数でしたが、すぐ隣に強い軍事力を持つセルビア共和国ボスニア国内のセルビア人を支援するかもしれません。そうなった場合ボスニア政府は太刀打ちできません。そこで、「もしボスニアに戦火が及んだ場合、その紛争を『国際化』し、国際社会を巻き込み、味方につけること」を画策します。ボスニアの外相シライジッチはアメリカのPR企業にボスニアのPRを依頼します。

PR企業とは

 PR企業とは、さまざまな手段を用いて人々に訴え、顧客を指示する世論を作り上げる広告企業のことです。日本だと広告代理店に近い仕事ですが、アメリカではCMや新聞広告だけでなく、利用できるなら政治家や市民団体を動かすこともあります。ありとあらゆる手段を使ってクライアントの利益をはかるのがアメリカのPR企業です。

 ボスニア、シライジッチ外相の改造

  まず、ボスニアの外相シライジッチはTV画面でいかに効果的に表現するかのレッスンをうけます。ボスニアの惨劇を伝えるために、キャスターの質問にすぐ答えず、少しいいよどみ、また沈黙したりして効果的に演出する。ときにはアメリカのキャスターが「なぜアメリカがボスニアにかかわりを持たなければならないのか?アメリカのメリットは何なのか?」と問うたさいには怒気をはらんで感情的になってみたり。PR会社はこのシライジッチをボスニアの外相という立場ではなく、サラエボの悲劇を訴える一市民として印象づけようとしていたのです。

『エスニック クレンジング 民俗浄化』というキャッチコピー

  クレンジング(cleansing)の意味は清潔にすること、汚れを取り除くことですが、それを『民俗を除去する』という文脈で使用し、ぞっとするような印象を与えています。PR会社は「セルビア人はボスニアに住むモスレム人を民俗浄化している!」という表現を使い読者に強いインパクトを与えました。

この言葉についてPR会社はボスニア・ヘルツェゴビナ政府へ提出した報告書に次のように記しています。

「1992年春、第一段階。アメリカの政策決定者と各国指導者の脳裏に注入するボスニア紛争の情報量を劇的に拡大し、大きな衝撃を与える作戦を発動した。そのために”民俗浄化”が注目を集めるように取り計らった」(p112)

 マスコミはこぞってこの「民俗浄化」という言葉を使い始めます。マーケティングにはキャッチーなメッセージが必要なのです。見出しにもちょうど良いフレーズです。

『強制収容所』

「民俗浄化」という言葉を聞いて何かを思い浮かべないでしょうか?多くの人は第二次世界大戦のナチスを思い浮かべたのではなでしょうか?この「民俗浄化」という言葉を新聞やTVで見聞きした当時の人もそうっだったに違いありません。 

 セルビア人がモスレム人を収容する「強制収容所」があるのではないかと憶測が飛ぶようになります。92年8月2日の『ニューズデイ』という新聞の記者ガットマンが「死のキャンプ」という見出しでボスニア北部オマルスカの強制収容所から逃げ出してきた2人の元囚人の証言が掲載します。その収容所には8千人が閉じ込められ、あるものは銃殺され、あるものは餓死した、と書かれています。

 このスクープに先立ち、ガットマンは「強制移動させられるモスレム人が運ばれる列車」も取材しています。この話も読者にナチスを連想させるストーリーです。アウシュビッツに運ばれるユダヤ人が、列車にぎゅうぎゅう詰めにされ運ばれるシーンを思い起こさせます。しかし、ユダヤ人が貨車で運ばれたのに対し、セルビア人が使ったのは客車で、行き先も収容所ではなく、モスレム人を難民としてオーストリアに送り込むためのものだったということが分かっています。

 ガットマンは後に高木氏の取材にこう答えています。

「われわれは記事を書くのにパッケージが必要だからね。強制収容所はそれにぴったりだったんだ」(p213)

 パッケージとは「読者の興味をひく一連のストーリー」だそう。ちなみに、強制収容所の記事を書くにあたってガットマンはオマルスカに行ってはいません。ガットマンは強制収容所があると噂されるオマルスカに行こうとしますが、なかなか現地に近づけませんでした。ザグレブクロアチア)の難民キャンプでボスニアから逃げてきたモスレム人から強制収容所の証言を得ます。この記事でガットマンはピュリッツァー賞に輝きました。

 同じころイギリスのITNというTV制作会社がガットマンが取材できなかったオマルスカの強制収容所を取材しています。そこは、捕虜収容所でしたが、皆がイメージするナチスの「強制収容所」のようなところではありませんでした。別の収容所を取材しても衛生状態はよくはなかったものの強制収容所とは言えないものでした。夏の暑いさかり、収容者は上半身裸で過ごしているものもいました。そのなかでひどく痩せている男もおりアバラ骨が出ているものもいました。ITNのクルーはその男にシャッターを向け写真をとります。それがこの写真です。

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 有刺鉄線の前に物憂げに佇む、やせ細った男。まるで、こちらに助けを求めているような。この写真が世に出るや否や、これは強制収容所だ!「世界は二度と強制収容所という蛮行を許してはならない!」と国際世論は沸き立ちます。紛争後、この地域を再度取材したドイツ人のトーマス・ダイヒマンによると、この有刺鉄線は収容所のものではなく、隣の発電所の鉄線とのこと。つまり、有刺鉄線で囲まれた中にやせこけた男がいるような構図で写真を撮ったと考えられます。

邪魔者の除去

  「強制収容所」という言葉と「有刺鉄線と痩せた男」の写真が大きく世論を動かすようになってきました。「セルビアは悪、討つべし」アメリカ国内でもそのうねりは大きくなります。そんな時、ある男があらわれます。国連防護軍サラエボ司令官マッケンジー将軍です。

 将軍はサラエボで「セルビア人もモスレム人のどちらにも与しない、紛争は当事者の双方が悪い」という旨の発言を繰り返します。実際、世の中の「セルビア人による非道報道」は荒唐無稽なものが多く、サラエボにいた将軍にはそれがほとんどウソであることを知っていたのです。さらにセルビア人だけが悪ではないことを将軍は知っていました。マッケンジー将軍は次のように証言しています。

 たとえば、敵を攻撃するとき、迫撃砲をわざと病院の脇に設置するのです。こちらが撃てば当然敵が反撃してきて、味方の迫撃砲陣地を狙った砲弾がとなりにある病院の小児科病棟に落ちます。それがサラエボにたくさんいた記者たちの手で報道されて世界の母親たちが同情する、というわけです。国際世論をひきつけるために、自分の国民を犠牲にするやり方ですよ。(p262)

  将軍らは命をかけて市民の食糧空輸を確保していましたが、これらの中立の発言のおかげで、ボスニア市民は将軍を非難し、子どもまでも中指をつきたてるジェスチャーをする始末だったとか。「おれたちの味方をしないやつは敵」だったのです。

 現地サラエボから北米へ帰国することになった将軍に不運が襲います。ちょうど、マスコミが「強制収容所」で騒ぎ出した時期でもありました。メディアは将軍へのインタビューで「強制収容所」について何度も質問します。将軍の答えは「知らない」「セルビア人もモスレム人もお互いに相手側に収容所があると言い合っている」と発言しました。将軍がいたのはサラエボ市内だったので、その他の地域についてはほとんど分からなかったのです。将軍は「分からない」とは言ったものの「(強制収容所は)ない」とは言っていません。将軍は本当に知らなかっただけえす。しかし、これらの発言はPR企業にとって喜ばしいものではなかったのでした。そこから将軍への攻撃が始まります。将軍の軍隊での経歴を非難するようなものから、将軍の奥さんがセルビア人だからセルビア人の肩を持つのだなどとい誹謗中傷まで。将軍の奥さんはセルビア人ではなくスコットランド人でした。マッケンジー将軍は、定年まで数年を残し軍を去ること余儀なくされました。

ナチスをセルビアにかぶせ、多民族国家アメリカをボスニアにかぶせる

 PR会社は「民俗浄化」や「強制収容所」という言葉をたくみに用いることによってセルビアを悪にしたてあげました。一方、ボスニアは多民族が暮らすアメリカのような国なのだとメディアを通して訴えます。結果、セルビアは国連から追放されることとなります。

 

ボスニア紛争は95年アメリカ、オハイオ州にある米軍基地で和平合意が成立するまで続きました。

 この動画が当時のサラエボ市内のようすです。この動画を撮影したのは山路徹さんです。前編と後編があります。


ボスニア内戦 民族紛争の真実 前編 - YouTube

 
ボスニア内戦 民族紛争の真実 後編 - YouTube

 

  

ボスニア紛争の後の話を。

 同地域ではボスニア紛争後、コソボ紛争がおこり(このコソボ紛争でもアメリカのPR会社が暗躍し、セルビアを悪にしたてあげた)、セルビア共和国の大統領だったミロシェビッチは2000年の大統領選敗北後に逮捕され、オランダ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に送られました。2006年、独房のなかで死亡しているところが発見されます。死因は心臓発作だったといわれています。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

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